2013.05.19

21世紀のデザイン

5月18日フェリシモ神戸学校第193回 服部滋樹さん(graf代表) 受講メモ

grafの作品についてというより「21世紀のデザイン」についてというような話。

1920年代に興った民芸運動の話に始まった。広まる西洋文化に対して手づくりを中心とした社会に対するアンチテーゼ。

バブル崩壊によりこれまでの メーカー→販売店→ユーザーというタテ型からヨコ型へ新しい仕組づくり。grafは(少年探偵団のような)多種多様のカテゴリー集団で、それぞれのスキルが活きる活動づくりをしていると。またクライアント自体もコミュニティ。(少年探偵団の一員)。

「スキマをつくる」…完成させることをデザインする。
100%完成させると(100%は不可能に近いが)完成した時点から劣化してしまう。使えば使う程輝きを生み出すデザイン。経験、色の蓄積など永く使えるために80%で完成し20%クライアントに埋めてもらう。その意味を対話することによってデザイナーが想像しなかった使い方で120%使ってくれる。100%で完成させることがナンセンスな時代。

デザインで解決しなければならないことの変化
これまではモノをデザインすればよかった。
香港の例 グラフィックデザイナーが地域を調査。その地域に何が必要か。
働き口かない。→洗剤をつくって、ボトルをデザイン
生産者を消費者に組入れる仕組。サイクル。
21世紀のデザインはモノの生まれる前からをデザインする。

21世紀のコミュニティ。
これまでは同世代を中心としたコミュニティ。
21世紀はインターネットで可視化されたたくさんのコミュニティに依存する。
コミュニティにどういう人たちがいるか調査。(コミュニティの外から見る。中の人は気づきにくい)つながっていない人を接続するために存在する。新しい目線を持った人がそこにいることが重要。
これまでは閉鎖されたコミュニティがそれぞれ存在していたが、21世紀はコミュニティがつながり重なる時代。

デザインの役割の変化
[戦後]不便を解決するデザイン→
[~バブル]仕事、生活を豊かにするデザイン→
[バブル崩壊~]細かい情報で伝わるデザイン。シンプルなデザイン。多くの情報で伝えるデザインはムダなデザイン。
21世紀は正しいモノを選択したい。選択の指針のためのデザインが求められている。

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2013.05.09

超・大河原邦男展

会期終了10日前、ようやく行ってきました。「超・大河原邦夫展」。小さい頃からテレビアニメを見よう見まねでメカ絵を描いたりしていたことを思い出しました。

60年代、70年代からの大河原氏のイラストを展示されていました。時代と共に変化する様子がとても興味深かったです。古い頃は青焼きの図面とか、使っている画材も変化して、この時代からコピックが出てきたなとか、この時代にワープロが出たなとか…
それでも現在になっても基本アナログの手描きです。特に古い時代にはパースもコンピュータで下絵を作ることはないでしょうから作業を想像すると逃げ出したくなります。60年代でもエアブラシで描かれた絵は感動しました。
どちらかというと古い時代のメカの絵が好みです。ガンダムより前の時代。ガッチャマンあたりはワクワクします。ヤッターマンとかもこの時代ですね。ロボットはダイターン3が気に入りました。ダイターン3は放送当時見てた記憶はないのですが。(ザンボット3は記憶有り)
ウラシマンの乗り物も取上げられていて感動です。これは全部見てました。


また本日は丁度1/1ボトムズ(スコープドッグ)の撮影会も開催されていて幸運でした。
これを制作されたのは倉田光吾郎氏。鉄と革で作られているようです。(記事
ほんとにどうやって作ったんだろうって思います。ほんとバカだなぁと感心する程精密です。
人を感動させるにはこれくらい本気で取り組まなければならないと再認識しました。
バカなものつくりたい。

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2012.11.25

コミュニティデザインの話を聞いて

11月24日フェリシモ神戸学校第187回 山崎亮さん 受講メモ

山崎亮さん…はっきり言って避けていました。「ランドスケープデザイナー」という肩書でまちづくりのソフト的なことをやってる人。…あんまり自分と重なるカテゴリにはいないと感じていたけど、まぁ(この業界の)人々が騒ぐからちょっと気になるなという気持ち。『まちへのラブレター』も買ったけど、乾久美子さんだからまぁ損はないなという気持ちで。(それでもまだ完読していない)

話を聞いてみて「あ、この人はデザイナーだ」と思った。アーチストではなくデザイナー。まちの、ひとの未来をできるだけ幸せになる方向に導くしくみをつくる人。「デザイン」というのは物事を秩序づけること。秩序の基準を探しだし役立つ仕組をつくること。
「コミュニティデザイン」という新しい仕組をつくっているが、現在のまちに本当に重要なデザインだと感じた。

公共施設をつくるにしても利用する人たち、それもある一定数の固定利用者を確保するためのしくみをつくろうとしている。それは「使われない施設は意味がない」ということ。
建物ができれば人は利用するという時代は終わった。建物が良ければ人は利用するという保証はない。
建物ができれば人がくるという時代が終わったのだから、何かしら仕掛けをしなければならない。ソフトがタダである時代も終わった。ソフトづくりにはコストがかかるのだ。
しかしハードのコストを下げ、その分ソフトのコストを上げても全体のコストを抑えることは可能。建物ができる前からソフトを準備しオープン時にソフトを受入れる体制づくりを主張されている。

まちづくりにしてもソフトを重視する。「つくらないデザイナー」というがソフトもまず既存のコミュニティを活用する。誰をどこに集めれば他のコミュニティが動くか。そこに新しいコミュニティを発生させることができるか。これらをただ単に成り行きにまかせるのなら素人の域である。自分の描く秩序に組上げていくところがデザイナーたるところである。誰でもできそうに見えて相手やプロジェクト、その場の状況で変わる流れに答えを出していく技は容易くない。話の中ではいくつものパターンをあらかじめ想定しておきその状況に応じてどういう方向にすすめるか応えを準備しているということであったが、ボードゲームが相手との対戦だけで何手先も読むことを考えるといったいどれ程の手を読む必要があるのだろう。
現在のまちづくりに不可欠となるジャンルの専門家である。今後ソフトづくりとその専門家の必要なことが当たり前となることを期待する。(山崎さんはコミュニティデザイナーが不要な社会が理想だと言ってたが、それはその先の話)

今回の話の内容については『コミュニティデザイン』とか『コミュニティデザインの時代』に詳しく書いてあるようだ。

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2012.09.29

加古川レンガ工場取壊しに思う

東京駅の丸の内口の赤煉瓦駅舎が復原され10月1日からリニューアルオープンされる。施された装飾も価値があるが、赤煉瓦の材質を活かしたフォルムは懐古的というだけでなく、現代の感覚でも人々に支持される美しさであるだろう。かつては取壊しもっと土地を有効活用すべきという意見もあったが、こうして建物の意匠的な価値を重視した改修が行われた。

加古川市にあるニッケの工場跡は明治32年(1899年)創業された煉瓦造群の建物である。一部は県道や加古川土手からその姿を望むことができ、100年以上も続くいい景観である。しかしこのたび敷地は加古川市に売却され市民病院が建設されることになっている。
関連記事『明治期のレンガ塀や倉庫見納め 旧加古川工場跡地』(2012/08/19 神戸新聞)

なぜ「更地の状態で引き渡し」という契約になったのか。全保存は機能的に不可能だということは想像できる。では外部に対する景観、病院という癒しを求める施設ということを配慮して一部を残し、活かそうという可能性を出すことはできなかったのか。
事業はPFI方式で行われている。市民病院といえども民間業者が経営等も含め提案、運営していく。景観とか憩いという市民サービスの概念は必要ない。そういうものは初期費用を上げるだけの荷物である。市民サービス全体を考えれば必要であるが、市民病院だけで考えれば必要ないのである。

では市が条件として建物の一部活用を入れる事ができなかったのか。
おそらく医療問題に対して景観問題があまりにも小さすぎた。市民にとってレンガ塀はそれほど重視されていなかった。広い加古川市全域から考えればその存在を知らない人も多かったのではないだろうか。

市民が知らなかった、関心がなかったということは加古川市の地域性に起因する気がする。
加古川市の中心部、加古川町は明治22年(1889年)に町制施行をしたが、戦前に鳩里村、氷丘村を編入、戦後昭和25年(1950年)に神野村、野口村、平岡村、尾上村と合併し市制施行している。その後も別府町、八幡村、平荘村、上荘村、東神吉村、西神吉村、米田村の一部を編入、昭和54年(1979年)志方町を編入して現在の市域ができている。市域のほとんどが戦後合併、編入された地域であり「別の地域感」が残っていることが想像できる。
また戦後加古川市は神戸、大阪のベッドタウンとして、また工場の従業員として他から移り住んできた人が大多数を占めるようになってきた。元々あった地域の歴史にそれ程関心をもつことがなかったのかもしれない。高度成長期は古きものを捨て新しい生活を謳歌する時代であった。

歴史といえば加古川は古くから歴史上重要な土地とされているにもかかわらず、歴史の物語の中にはあまり登場しない。古くはヤマトタケル神話から聖徳太子と鶴林寺の話、宮本武蔵の伝説など所々話は出てくるが、大きなストーリーの中で重要な場面は聞かない。城下町として発展したのではなく加古川の舟運による商人の町として発展したことが大きいからだろうか。歴史上のシンボルがあまり見えない。文化財は数多く保有しているのになかなか市民に浸透していない状態だ。これらが新しく移り住んできた人たちが歴史遺産に関心を持っていない理由の一つではないかと感じる。

実は新しく移り住んできた人は他の地域との比較が容易なので歴史遺産を発見、興味を抱くことが多い。長年地元に住んでいる人の方がその価値を知らずにいることが多いのである。
それでも今回レンガ工場がそれ程大きな問題にもならず取壊されるということはどういうことだったのか。今後のために覚え書きしておく。

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2010.11.23

兵庫県庁

兵庫県庁 (1号館):昭和39(1964)年竣工
兵庫県庁1号館

2号館、3号館
兵庫県庁2・3号館

小学校の遠足で、このそびえ立つビルを真下から見て驚いた記憶がある。
建物を見て驚いた原点。

兵庫県庁1号館

今は窓にソーラーパネルが設置されているのですか。
驚きました。

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2010.07.16

東播磨の歴史要点メモ

東播磨の歴史について気になっているところのメモ
(兵庫県全域にわたる部分もある)

・大歳神社、住吉神社、古代出雲と大和
・三木合戦~池田輝政
・廃藩置県~大久保利通
・明治~大正の鉄道網
・市町村合併史

義経弁慶の活躍は今のところあまり興味ない。

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2010.07.09

戦前のRC様式

今週は2回ほど大阪へ。
初めて見た生駒時計店:昭和5年(1930年)
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久しぶりに見た芝川ビル:昭和2年(1927年)
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今、昭和初期のRC建築を調べているのだが、この時代の建物はとても興味深い。

日本最古のRC造建築物は 三井物産横浜支店(明治44年)ということらしいのだが、大正時代も中頃まで大規模施設は石造や煉瓦造が主流のようだ。
大正中頃~昭和10年頃にかけての約20年間にRC造が華開く。外壁に装飾をまとうことが必須であるかのように、華やかなビルディングが揃っていくのだ。
それとも、たまたまそのようなビルが現存するだけなのだろうか。
しかし、戦後そのようなビルはなかなか生まれてこない。一時代だけに現れた一つの様式と言えるだろう。
(「モダニズム」ではないよな。「歴史主義建築」(Wikipedia)でいいのか?)

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2010.05.18

西脇市役所・市民会館

西脇市役所、市民会館がカッコイイ!

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定礎石によると市庁舎は昭和43年(1968年)1月竣工。市民会館は昭和41年(昭1966年)。

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予備知識なしに通りすがりに惹かれた建築。
建物のシルエットと、囲まれた広場(駐車場)の空間が心地イイ。
三方どちらを見ても絵になる。残り一方は杉原川の風景でこちらものどかな絵になる情景。

設計者等詳細が知りたい。

【12.08.19 追記】
いろいろお話を聞いていると
市民会館の設計は、根津耕一郎 氏。日本万国博覧会協会本部ビルを設計した方というツイートもあり。
市庁舎は市内部の設計でお名前が挙がってくるのが石野重則 氏。助役を経て第4代西脇市長になられた方です。
市役所内にきっちりとした設計ができる部署があったからこそ、野村公民館のような特徴的な公共建築が建てられたのでしょうか。

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2009.08.23

金沢21世紀美術館

今月のアクセス検索ワード番外でもありました、
金沢21世紀美術館 見てきました。
21thCMusium01.jpg
↑よく見りゃ、SANNAチェアが写っています。
 (あまり座り心地いいものではない) 


行った日はあいにくの雨模様。外からはあまり眺めなかったのですが、この美術館が景観にどうのこうの言われることはないかという気がしました。
通りから奥まった配置ですし、周囲もビルが建ち並んでいたりします。
この美術館ができるまでは小学校だったということですし(どんな校舎だったか知りませんが)、周囲に対して主張しているわけでもない。
また、特別展以外無料で開放された美術館は通り抜けするにも拒まない雰囲気でした。

気に入ったのはこの『スイミング・プール』 (レアンドロ・エルリッヒ氏作)という作品。

21thCMusium02.jpg



←全体の写真はこんな感じです。
(このタラップ、登ってもよかったのか?)

アイデア的にはよくあることですが、「水の中にいる」と錯覚させるディテール気になりました。



特別展「愛についての100の物語」 では塩田千春 氏の『記憶の部屋』。
そびえ立つガラス窓のタワーが印象に残りました。
(どうやって運びこんだのだろう?ガラス割れているんだけど落ちてこないかな?なんて気になる。職業病)



あと、解説なしでトイレの中に作品が展示してあるというフェイントはやめていただきたいと思いました。
(もよおさなければ気がつかない驚き)



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2009.08.04

縁台とテレビ

ようやく梅雨も明け蒸し暑い夏本番。夕涼みに縁台を見かけなくなったという話。椅子を出して涼んでいる人はたまに見かけるけれど、縁台は減った。

街角から縁台が消えて久しい。クーラーが普及し、わざわざ外に出て涼む必要がなくなったのが大きいという。区画整理で路地そのものが消えていく。路地の多く残る下町でも、クーラーの室外機や換気扇が涼しさを奪う。
from 2009年7月25日朝日新聞be「サザエさんをさがして」『縁台』

新聞では街角から縁台が消えた理由にクーラーを原因としているが、街角から人が消えた理由にテレビの影響が大きいと聞いたことがある。
テレビが各家庭に普及し、面白いことや世間とのつながりが家にいながらできるようになった。

ところで現在、地デジテレビに移行中で予想以上に苦戦しているという話。
タレント、女子アナ総動員で大キャンペーンの地デジは矛盾だらけ - 速報:@niftyニュース.』

テレビが面白くなくなったとか言われているけれど、こんな考察もあった。
テレビの視聴率がさがってきたのは大画面テレビのせいじゃないか 』 from 「はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記 」

ちょい見ならワンセグテレビぐらいの大きさの方がいいかもしれない。

テレビ離れが進む一方、ワンセグなど普及でテレビを見るのは自宅でなくてもいいようになってきた。

ひょっとして現在なら、縁台のある風景が再現できるのかもしれない。
(持ち寄りカフェテラスでもいい気がする)

政府も各家庭に地デジを普及させることを考えるより、地デジが普及しないことを逆手にとって、街頭テレビでまちづくりを考えるというのはどうだろう?

====思いつきメモ====
欲しいモノ:路地、または通行からちょっと入り組んだ場所、通りに面したテラス的な場所
アイテム:縁台、街頭テレビ、照明演出

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