2012.06.09

「蒼い旋風」の黒田官兵衛が美形

「蒼い旋風」全2巻 三浦浩子 著

足利13代将軍義輝の娘が主人公。永禄の変で義輝が討ち取られ逃げるところを黒田官兵衛に助けられ、播磨の別所家を頼るが官兵衛と恋に落ちるというストーリー。
黒田官兵衛との子が後藤又兵衛だというどこまでが史実に基づいているのかよくわからないけど、黒田官兵衛が美形に描かれているのは珍しく思いました。

昭和60年~61年(1985~86年)発行のコミック。絶版みたいですが、こちらから少し立ち読みできるようです。 → コミックパーク (全巻購入は高いな)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.08

三木市のなまこ壁 その2

今日見た、なまこ壁

三木市本町交番
景観配慮として瓦屋根とか、なまこ壁を設けているんですけれど…惜しい。
新たに景観配慮する壁にはこのなまこ壁を設けるようフォーマットでもあるのかというくらい増えてますが…惜しい。

 

このプロポーションなら徹底して土蔵風のデザインにするとカッコ良くなるのですが。

しかしこの寄棟(方形)の頂点に座る飾りは興味深いのです。

その1はこちら
三木市のなまこ壁

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.11.07

『センゴク天正記』三木城攻略

センゴク天正記 』12巻
10巻から3巻にわたって掲載された三木城攻略の章が終了しました。
郷土史や竹中半兵衛、黒田官兵衛などの歴史小説などでは三木城攻めの話は読んだりしましたが、やはりコミックですと理解がしやすいです。

また最近三木城関連の史跡が多く発見、調査されており、三木市も三木城跡及び付城跡群の国史跡指定に向けて動いているようです。『センゴク天正記』もわりと最近の資料をもとに描かれているようです。
(最後、大量虐殺があったともなかったとも取れる終わり方が興味深い)


三木城趾にある別所長治公像。三木にいますと「別所長治公」までが固有名詞として覚えます。「公」が敬称だということははるか後になって知りました。

別所長治公辞世の句。「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」という句はテストに出ます。

図書館横にある埋蔵文化財展示室(旧三木高等女学校1階)では三木城とそれを囲む秀吉軍の配置模型が展示されています。(もっと宣伝すべき)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.05.18

「ナメラ」という地名

三木市には「ナメラ」という地名がある。「ナメラ商店街」という看板も上がっており、ここを訪れる観光客はその語感に興味を持たれるようだ。

ナメラとは「滑原」と書き、福本錦嶺 著『三木の地名録』には

滑原(なめはら)とは川の中に滑らかな岩が突きでている原っぱから付けられたものである。人が呼んだ地名である。
と記されている。側を流れる美嚢川は現在この辺りから川幅が広くなっており、川にまつわる地名であると想像できる。

ところで、明石の古い地図を見ていると「なめら町」という地名があったことに気がついた。

島田 清 著『明石城』に載っている「享保年間の明石城下図」(『再摂大観』-明治44年刊-より)である。これに明石城下町の図が載っているのだが、現在魚の棚商店街を形成する一画に「なめら町」が記されている。


享保年間とは1716年から1735年までであり将軍徳川吉宗の時代である。

三木市の滑原は三木城内にあり、中島丸と呼ばれていたそうだ。(『三木の地名録』より)
しかし、享保年間になると三木城は取壊されており、「人が呼んだ地名である」ということはそれ以前から非公式に呼ばれていた可能性もある。明石城の築城に三木城の資材を使ったという話や魚の棚は三木の方が古くからあったという話を聞くと、この「なめら町」という地名もなんらかのつながりがあるのではないかというような気がしてならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.01.30

『三木町略史』から(3)

さて三木の赦免地であるが、多くの本には三木落城後秀吉により地子諸役免許の町となったことが書かれてある。これは徳川時代幾度も地子免許状や秀吉の立札をもって新しい領主に赦免地であり続けたことが記録されているので事実であろう。
しかし、それ以前はどうであったか。

別所氏が早くから城下に赦免の特典を与えて保護したことは、別所氏滅亡と同時に秀吉がたてた制札の文面によって解される筈である。

「三木町略史」では戦国武将が城を築いた時には城下町も築いたことと秀吉がすぐに以後も赦免地にする旨を伝えて町民を呼び戻し復興を行ったことから 別所氏の頃から赦免地であったと想像している。

ところでもう一つ三木には赦免地について伝説がある。菅原宗賢の伝説である。

鎌倉時代には、街道筋に住まいした菅原宗賢が、旅先で僧の姿をした北条時頼に出会い、旅をともにしたことから友情がめばえ、その縁により三木の地が免租地となったと伝えられています。
三木市観光協会のページ

北条時頼は各地に廻国伝説が生まれているの。三木市に残る秀吉の制札や別所氏の扱われ方に比べ大きくないので後世につくられた話である可能性は高い。徳川の時代に秀吉の、別所氏のというより北条氏のといった話を持ちだす必要があったかもしれない。それでも「赦免地」ということが重要であったという資料につながるであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『三木町略史』から(2)

「三木町略史」によると、赦免地であった三木城下町に木工匠が集められた。「三木大工」として広く出稼ぎをするようになり、また出稼ぎ先で定住するようになった。しかし大工道具は三木産のものが広く使われ続け、出稼ぎ先や定住先でも広められてきたそうだ。三木の金物が秀でていたためであろう。
しかし、いくら秀でていてもそれだけでは産業に成り得ない。問屋の出現が重要な役割を果たしたようだ。

鍛冶屋は専ら製産することに余念はないが、問屋は各地に売出して販売すると同時に、その頃資本力に乏しかった鍛冶屋に材料、生活費を与えて、その製品を一手に買込んでいった。鍛冶屋側になると、遠い土地にいる大工やら道具屋と取引することは、色んなことで困るので、材料を与えてくれて、必要な生活費がすぐもらえる手近な問屋との取引を望んだことはあたりまえで、鍛冶屋と問屋とのつながりはこのようにして生れ、そして増々盛んになっていき、この形は永らく続いていった。
(中略)三木産の工匠具が、地方に売られる目的で本格的に生産されるようになったのは、天明(1781-1788)頃から寛政の始め頃にかけてのことであったと察しによいであろう。

問屋制家内工業の出現であり、鍛冶屋の工程も細かく分業制になっていったようだ。江戸時代に確立された生産機構の前例は小野の金物や算盤産業ほか周辺の地域にも影響を及ぼしたことが「播磨の地理」 人文編 に記されている。

「赦免地の存続」と「問屋制家内工業」、これらに発する潜在意識は三木の町なかに今も気配が感じられることを忘れてはならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『三木町略史』から(1)

三木市の主要産業は金物である。
「三木町略史」によると別所氏が三木城を築城した頃…定かでないが瓦大工として名高い橘氏一族の清川神左衛門が定住したと考えられる文明14年(1482)~長享2年(1488)には三木に多くの木工匠が住んでいたとされる。

イ、三木の町が、町らしく出来たのは別所氏の築城による城下町建設のためであったと考えられる。
ロ、別所氏は、城下民のための職業として木工匠を奨励、保護したようである。
ハ、この木工匠に使われる道具の製産が、いまの三木の利器製産の始まりと考えられる。そしてそれは、長享二年頃にはもう多少とも造られていた。

別所氏が城下民として染め屋や木工匠を住まわせ、税を赦免してきた。また三木城落城後、秀吉は三木の復興のため赦免地とする制札を即日たてたということだ。
それは徳川時代に入り、領主が代わっていっても町民が嘆願によって赦免地であり続けることができたという。

ところで、なぜ三木の町で金物が製産されるようになったのか。
「三木町略史」による考察が面白い。

誰も知るように、三木の製品の主原料である鉄鋼は三木に産しない。又加工に使う木炭が豊富にここでできるわけでもない。
次に販売の方に眼をむけてみると、京都、大阪に比較的近いといえば近いが、それらとの交通を考えてみると山にさえぎられていて、それらの郊外である摂津や河内の平野の方がはるかに便利で有利なところであることはいうまでもないことで、同じ播磨にしてももっと海岸に近いところの方が交通が都合が良いわけである。
するとこの発展の原因は、原料の入手や、交通や、製品の消費地に近いからというわけではなく、他に考えなければならない。それは、やはり三木の最初からの特典であるところの赦免地であるということ、農産も多少はあるが、他に特殊な産物が考えられないこの土地柄から、一応三木の特産物として知られたこの産物に対して、製産者は一心に製品の改良と増産につとめ、販売業者は秀れた商才を利用して専ら熱心に商いにつとめたので、この両者組合された力によって漸次発展してきたと解するより致し方が無い。

つまり、三木の町で金物産業が発展したのは年貢の赦免地であったためで、たまたま芽生えてきた金物の製産業が少しずつ大きくなっていったということらしい。
しかし、原料の調達も困難で販売ルートにも不利な地域で製産するわけであるから、材料の調達、一括発注、独自の販売ルートを確保していった問屋の功績が大きいということだそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.29

旧小河家別邸

国登録有形文化財「旧小河家別邸」(三木市本町)

この椅子は日本楽器会社製(ヤマハの前身)
昭和6~7年頃の意匠登録製品か?
最近復刻版も造られているほどのヒット商品だったらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.14

三木市旧市街地散策あしあと(その1)

12月12日 三木市旧市街地を散策したルート


powered by 地図Z

[1] 旧玉置家住宅(写真左)
[2] 旧小河家別邸(土蔵部分)
[3] 中町・丸一の洗濯場
[4] 清水の洗濯場
[5] 三木鉄道記念公園
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.10.04

三木市の高等女学校跡が危ない

先日の記事『三木市の市長提言が気になる』でも書きましたが、現在三木市は三木城址を国の文化財指定に向け準備をしているそうです。(歴史・美術の杜構想)

で、三木市のホームページに市民アンケートと結果がアップされていました。 (リンク
そこに、

国の文化財指定を受けると、三木城址に関係のない施設は、老朽化等に伴い撤去又は移転しなければならなくなります。
と書かれていて、「撤去又は移転はやむを得ない」という意見多数となっています。

MikiGirlSchool02.JPG

これは女学校跡の建物を取壊すという事なのですが、 文化財として指定する史跡は過去の状態を復原の方針はあるものの、これまでの事例、例えば明石城跡(2004年国指定史跡)を見ても城内に施設が残っています。

本来の史跡の姿に戻すことが城址の文化財指定条件なら現市庁舎も取壊すべきなのですが、アンケートでは他の施設(保育園等含む)にはふれず、この建物だけ解体しようと誘導しているのが気になるのです。

また、解体跡地に歴史博物館を建設しようとしているのが本来の史跡の姿に戻す方針に反しないのか疑問であります。

そのへんの筋道が通った話があり、素晴らしい歴史博物館が建つのであれば問題ないのですが、三木市の過去の様子を見ているとバタバタと計画が進んでいて、新しい建物が出来てから残していた方がよかったということになる気がいたします。

市民アンケートや大学の先生に少し意見を聞いて、あとは市の考え主導ですすめるという事だけが手法ではないと思うのです。

解体費用や図書館の移転費用をこの文化財指定の事業に含めてしまえば予算を取りやすく、帳簿の上では優秀な事業だとは思いますが、
特徴のある建物(風景)が失われて、空き地と使いにくい安物建築の風景に置き換わるのが恐ろしいです。
どうせ新しくつくるなら、市のシンボルとなるような建物をつくるべきでしょう。(その意味から金物資料館はイイ建物だと思います)
公共建築というのは、風景をつくること。歴史をつくることであると思うのであります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)